黒子のわっさん

しょうもない今日も、、はい。 

かくことがないことが恐ろしく嫌だった

 普段ダン・ブラウンの作品しか読まないのに、何かの気の迷いなのか、憧れか、焦りか、何とも表現のしにくい透明で重みのない動機で志賀直哉の本を読んだ。正直なところ志賀直哉が誰でどの時代に生きた人なのかも知らない。ただ短い文章の中できれいな情景描写、それと物語としての主題を直接書かずとも伝える文章力、日本人を代表する作家である所以が素人目に理解できた。

 ヴェネツィア共和国の寓意画は、女性名詞であるから女性であり、正義の象徴である長剣と権力のバランスを意味する天秤を持っている。しかし本来の正義の寓意画とは異なり王座に座り、聖書に出てくる知恵の象徴でもあるソロモン王の王座なのである。これらをもって16世紀前後のヴェネツィア共和国が何を主張したかったのかよくわかる。

 もっとも、日常の中にあるものでもいい。例えば商業映画、長すぎるイントロ、ふと感動したり、感情が動かされたものがあっても、面白いった話や物語。おそらくすぐに忘れるだろう。忘れたいわけでもないし、忘れたくないものである。懐古という言葉があり要に一度した経験は月日が経ちまた触れることで再び感動する。でも恐らくそれは懐かしいという感動であり、本質じゃない。日々勉強や生活などする中で、多くの感動に触れることがあり、一時の気の迷いでその感動に流され洗脳されたように自分の生き方に価値観として新たに組み込もうとする。しかし、三日も寝れば大抵のことは忘れる。また、元の自分に戻る。刺激の多い日々を送るのは、感動を継続的に受け価値観が更新され新しい視野が広がるのかもしれない。けど、二度と元の自分には戻ってこれない。なぜならば新しい感動が与えられるからだ。

 本を読んだ動機でもあるが、自分は透明で重みもない、味もない、ただ社会という空間に酸素として消費されるだけの存在なのかもしれない。本や象徴学の鉄が空間の中に投下され、たまたま近くにであった酸素と一時的に結合し酸化鉄になるものの、普段の生活にとって邪魔な存在はごみとしてその空間から放り出される。それが忘却なのか、はたまた自分自身もすべてその空間から除外されるのか怖いものである。

 自分はこの夏に自分の趣味と自称していたバイクを事故で失った。今までの生活においてバイクとは大きな割合を占めていた。突然にそれを失っても自分でも驚くぐらいに平然としていた。おそらく音楽でも同じことがいえよう。何かがないと生きていけないわけではない、すがるものが何もない人はただ落ちていき有象無象になるのか。おそらく、何かにすがらないと生きていけないという表現を良く耳にするがそれとは全くのベクトルが違う話であり、比べて話す対象でもない。なんというか、趣味といった表層のものをはがしていったときにその内側に何かある人間なのか何もない人間なのか。自分は何もないことを恐れて、様々なことに手を出すものの結局は趣味でしかなく解決にはならない。最もその趣味が生きがいとして内側まで深く刺ることができたならそれは答えではある。無理やりベクトルを合わせようとするのならば、何かにすがらないと生きていけないということは針はすでに内側まで刺さっている。それを恥じている人たちがいるのならばそれは、より内側の芯を作りあげていきたいと考えているのかもしれない。よっぽど内側に何もないくせに行動にうつさない奴より立派なもんだと思う